ツイッタ―道とは
ツイッターが難しいという話です。いや、「ばあさんや、ツイッターはどうすればできるのかのう…」という話ではない 。
難しいと感じているのはツイッターをする際の心構えというべきか、精神性、ツイッター道ともいうべきことがらである。
ツイッター道とは!?
別に、この記事を最後まで読んだら結論が出るというわけではない。問題提起以前の、自分なりの問題整理の記事である。
私はツイッターで好き勝手したいわけだが、流石にマナーというものがあるだろ?リプやDMで悪口を送ったり、グロテスクな画像、どエッチな画像を投稿しちゃいけない。誹謗中傷や、誰かを傷つけるような嘘もダメだ。ここまでは分かる。
では、知り合いでもなんでもないアカウントの日常のほっこりツイートに「素敵ですね」とリプをつけるのは?
リプで創作(イラスト・小説・音楽)の感想を送るのは?
いや、見ず知らずの人間に対して、いいねを送ることさえ、許されているのか?
……流石に、これらの問いは神経質が過ぎると言わざるを得ないだろう。相手がどう思うかは相手次第とは言っても、同じ人間だもの、おおよその予測くらいはつく。大抵の場合その予測は当たってて、少なくとも悪いことにはならないはずだ。何オドオドしてんだよ。どーんといこうぜ。
だが、真に恐れているのは、その「おおよそ」の外、予測の外側である。
- 本当に、それは日常のほっこりツイートなのか?
- なんらかの例え話だったりしないか?
- その例え話を理解できているか?
- 実は皮肉・自嘲的な要素をふくんでいないか?
- 内輪ネタだったりしないか?
- いわゆる「空リプ」ではないか?
- その感想リプは的外れなものではないか?
- その褒め方は作者の「地雷」ではないか?
- リプを送れば、それはフォロワーに見られることになる。相互フォローの人は「なぜこのツイートには反応して私のには反応しないのだろう」と不快になるのではないか?
ちょっと考えるだけでも、このような「危険な理由」を考えることができる。そして、自分が考えることもできないような理由もたくさんあるだろう。
そのツイートの本意は私が読み取った通りとは限らないし、リプは私が伝えたかった思いを正確に伝えるとは限らない。
ツイッター道とは!!??
ここで、偉い人の名言を引用しよう。
何かを語ろうとしたとき、言葉は使いすぎるか、足りないか、そのどちらかである。
by エライヒトガー・イッテタ (1234~2234)
言葉は不完全、どころか、厳密に言えば思いを完璧に表象することはできないのだから、表象行為すべてが不完全であるし、なんなら人間の認識も不完全なので、二重に不完全だ。
これで、一体どうしてツイート主の真意を正確に理解することができようか。
ここまでくれば、
もうおわかりでしょう。
ツイッターに完全なコミュニケーションなど存在しない
永遠に会話のドッジボールをしてるがいいさ
それが人間の業”カルマ”なのだから
︙
︙
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ツイッタ―道
そうだ。確かに、完璧なコミュニケーションなんて存在しないのかもしれない。
話が通じているようにみえて、大事な言葉の意味を違えていたり、肝心なコトをわざと隠しているなんてよくあることだ。
全然キャッチボールじゃない。自分だって、思ったとおりに球を投げれるわけじゃないけど、わざとじゃないかってくらい変なところに投げてこられると、それを捕りに走っているときは「一体なにしてんだろ」って気分になる。
全然キャッチボールじゃない。
でも、ボールを捕りに走るのは嫌いじゃないし、なにより逸れたところをなんとかキャッチできた時は楽しい。
そういう趣味があるわけじゃないけど、まっすぐボールをぶつけられるのも嫌じゃない。ちゃんと僕を狙ったのが分かるから。
それに、正面で受け止めたときは、相手にぶつけ返すチャンスだ。どちらかが先にノックアウトになるか、投げ損なうか、肩が疲れてしまうか、「ドッジボール」の始まりだ。
そうだ。僕は、ドッジボールが楽しいんだ。
捕れないボールを投げてしまうかもしれない。
逸れたボールを捕りに走り回ってる時間の方が長いかもしれない。
ボールを当てて相手にケガをさせてしまうかもしれない。
勢いが良いのを顔にぶつけられてしまうかもしれない。
それらは全部ドッジボールで、それでも、僕はそれをやりたくて、それしかできなくて、ここにいる。
コートにいる以上、僕は、君にボールを投げる。
だから君も、僕にボールを投げてほしい。
僕は避けない。そして、きっと君に投げ返すから。
――とは、ドッジボールと見つけたり。